松本秀子さんの被爆体験2018年パート1

大阪のうたごえ「関西合唱団」の方々が2018年5月4日、広島県呉市で、松本秀子さん(88)の被爆体験を聴きました。松本さんは「原水爆禁止2018年世界大会―広島」の閉会総会でも「その瞬間」を語る予定でした。しかし、大会の事情でできませんでした。被爆者の貴重な証言ですので、原水協通信ブログとして8月24日、「私の被爆体験」にアップされました。(馬場佳子)

 

私の被爆体験

松本 秀子(88歳)

消えた町名 いま 祈りの場に

原爆投下直前まで松本秀子さんの家族が暮らしていた材木町の石碑(広島平和記念公園の真ん中辺り)

人類最初の核爆弾が投下された昭和20年(1945年)8月6日まで、私は広島市材木町に家族10人で住んでいました。今の平和記念公園の

真中あたりにありました。現在は材木町という町名すら残っていませんが、ひとかかえ程の自然石に「材木町跡」と刻まれた石碑が説明版と並べて建てられています。

最近時折、「原爆が落ちたのが誰も住んでいない公園でよかったね」という声を耳にします。「とんでもないです」。今でこそ広い静かな公園になっていますが、大きな商店が軒を並べ、たくさんの人が暮らす広島で一番賑やかな繁華街でした。そこへ原爆が投下され中島地区一帯は廃墟と化したのです。そして、復興の過程でこの広い祈りの場が出来たのです。今も平和公園の下には、たくさんのお骨や暮らしていた街が埋まっています。2,3年前、若い女性が「この辺りはそっと歩いてほしい」と静かに祈るような口調でインタビューに答えておられました。

 

建物強制疎開 中学1,2年生全員動員

爆心地から1㎞圏内には南に広島県庁があり、北に広島城が高くそびえ、日清戦争(1894~95年)のころには大本営が置かれ広島は軍都だったのです。昭和20年頃にはアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)でアメリカ軍の空襲を受けるようになりました。空襲火災の延焼を防ぐため、建物の強制疎開が急ピッチですすめられていました。その後片づけに市内中の中学生男女1,2年生全員と、近郊の人たちも動員されて作業にとりかかろうとしたその時・・・

 

オレンジ色の世界 静寂5,6秒 顔・肩・腕に突き刺さるガラス

私はいつものように朝7時頃母の作ってくれたお弁当を持って「行ってきまーす」と家から3㎞南の翠町にある女学校へ行きました。これが家族との今生の別れになるとも知らず。校舎の2階で友達とお話をしていました。

すると、突然本当に突然、何の前触れもなく、世の中がオレンジ色に包まれ、とっさに机の下にもぐり込みました。それから静寂の5,6秒。今のうちにと立ち上がった次の瞬間、ものすごい爆風と爆圧に圧迫され、粉々になったガラスを顔の右側、肩、腕に受け、血を流しながら校庭の防空壕に走り込みました。

 

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Posted by abiru