松本秀子さんの被爆体験2018年パート2

身焼かれ 髪逆立ち 皮膚裂かれ 「地獄もこれほどでは・・・」

そのあと、何の動きもなく、学校からの指示もなく「市街地が大変なことになっている」との情報があり、家に帰ることにしました。お昼頃、御幸橋の上には、今のものすごい閃光に身を焼かれ、火煙の中から逃れて来た人たちが倒れ込み、座り込んでいます。髪は逆立ち、皮膚は引き裂かれて垂れ下がり、足を引きずりながら次から次へと避難して来る人、人、人。どうしてあげることもできず、声も出ません。「地獄でもこれほどではないであろう」と心が張り裂けてしまう程の惨状です。この人達はつい先程まで、セーラー服姿の可愛い少女や、ゲートル姿の凛々しい男子中学生でした。やがて軍隊のトラックで江田島や、鉄輪島に収容されたようです。

 

足下で崩れ落ちた地球 不気味な静寂に吸い込まれた泣き声

その日は我が家には帰れず、大混雑の中、材木町の近所のおばさんのご実家に誘われてお世話になりました。その晩、広島が燃える真っ赤な夜空に誰も一睡もせず、翌7日早朝、我が家を目指しました。まだまだ火が残っていて入れず、8日にやっとあの我が家が・・・あの材木町が・・・見渡す限りの地球が私の足下に崩れ落ち、どことも知らない荒野にひとりポツンと立っている感覚、そのうち体が小刻みに震え、だんだん大きく泣いていました。その声はまわりの不気味な静寂の中に吸い込まれていきました。

 

母では、お姉ちゃんでは、弟妹では・・・

ようやく変わり果てた我が家に入りました。玄関と台所辺りにきれいな白骨が2体ありました。「ああ、お母ちゃんだろうか?」・・・「お姉ちゃんだろうか?」・・・見覚えのあるお茶の缶に拾いました。カラカラと鳴りました。

我が家の周りには、変わり果て炭のようになった4,5体の物体が・・・「これは弟の衛(まもる)君ではないか」・・・「妹の記子(としこ)ちゃんでは?」・・・と思いましたが、私はどうすることもできませんでした。

 

へその緒でつながる炭化した母子 父・弟を荼毘にふす同級生

放心状態で歩いていると爆圧で両目が2,3㎝も飛び出した遺体にもあいました。炭化したお母さんとまだ、へその緒でつながった赤ちゃん親子の遺体に思わず手を合わせました。

南無阿弥陀仏。

空襲火災の延焼を防ぐため防火帯をつくろうと、建物疎開のあと片付けに動員されたまだ12,3歳の男女中学生が、火傷の体を必死で支えながら親の迎えを待っていました。中にはすでに命尽きた人も・・・。

惨いことに土橋辺りではたくさんの亡くなった人を兵隊さんが一カ所に積み上げて荼毘にふしておられました。

私の同級生もお父様や、可愛がっていた弟さんを自分の手で荼毘にふしました。後々の同窓会の時に話しておられました。「その時、彼女らは15歳の子どもでした」。

 

3日後 父と再会 川のほとりで妹の服の切れ端

9日の朝早く、町の要所 要所に書き出してある救護者名簿のおかげで父と鉄輪島で会うことが出来ました。父は中広町辺りの知人の家で建物の下敷きになりましたが、幸い大きな外傷はなく、目を痛めていました。

鉄輪島でも大けがや火傷をした男女学生さんが、バラックの兵舎に収容されて看護を受けていましたが、次々に亡くなっていき、肉親の声をひと声も聞くこともなく、肉親をひと目みることもなく裏の山に葬られていきました。

その間にも、空襲警報のサイレンに身を潜めながらの生活です。鉄輪島で二晩お世話になり、音戸へ行くべく市内を歩いていましたら、天満川のほとりで妹の喜久ちゃんの服の切れ端が私の目に留まりました。母の着物を仕立て直して私とお揃いを作ったのです。

あの日の朝、13歳の妹は土橋へ疎開の後片付けに行くと言っていました。閃光を浴びてくすぶる服を脱ぎ捨てながら天満川に入っていったのでしょうか。7日の日に私はあのそばを通ったのに、見つけてあげることができませんでした。胸が痛みます。一生忘れることはできません。

 

母40歳、17歳の姉、13歳妹、6歳弟、4歳妹、2歳弟 供養塔に

17歳の姉は当時、流川にあった中国新聞本社に勤めていましたが、消息もわかりません。母はあの時、家の下敷きになりながらも、とっさに私たち子どもを両手に抱きかかえてくれたのだと思います。慰霊碑の北西に直径10m位の丸い土饅頭型の原爆犠牲者供養塔があります。ここには国籍、宗教を問わず、約7万人のお骨と慈母観音像が納められています。

私の家族、当時40歳の母、17歳の姉、13歳の妹、小学1年生になったばかりの元気な弟勉君6歳、4歳の妹記子(としこ)ちゃん、2歳の弟衛(まもる)君もこの供養塔に納められています。私にとって大切なお墓です。材木町に来たら必ずお参りに行きます。

父と私は音戸に行き、疎開していた弟妹たちも音戸で親戚のご好意で生きてきました。

 

抜け落ちた髪 歯もあごの骨も溶ける 腫れあがる体 父58歳で死去

父は、妻と子どもの6人と生活の基盤一切を一度に奪われました。その上、ひどい原爆症に痛めつけられ、髪の毛は抜け落ち、体中パンパンに腫れ上がり、口中の肉は溶け、歯はもちろんのこと、上顎の骨まで溶け落ちてしまいました。それを見てみんなで放射能の恐ろしさに震え上りました。42歳の壮年の父がいっぺんに百歳のおじいさんに変貌してしまいました。原爆症に痛めつけられ、その上癌を併発して父は58歳の若さで亡くなりました。

 

今も数字の8と6を見ると緊張

この戦争は何のための戦争だったのか? あの恐ろしい原爆は何をするための爆弾だったのか? 犠牲になった人たちに、お父さんに、お姉ちゃんに妹たちに何と報告すればいいですか。もうすぐみんなに逢いますけど・・・

私は広島に行くのがイヤだった。しばらくの間、行けなかった。我が家を土足で踏みにじられているような気がして。今でも数字の8と6が並んでいるのを見ると体が緊張します。でも今は年齢も重ね、歌の好きな私は素晴らしい先生のご指導のもと、お仲間と一緒にコーラスを楽しんでいます。これも平和な世であればこそです。

2018年5月23日音戸ファミリーコーラスメンバー。左から石島さん,馬場,松本さん,高田さん,竹田さん,國貞さん,私の姉

「戦争のない、核兵器のない世の中」を この願い つなぎます 

戦争のない、核兵器のない世の中を願って世界中からこの広島に大勢の人が集います。この願いがあの人と、この人とハイタッチでつなげられたら素晴らしいと思います。つなげましょう。

「ピカドンが落ちたら 昼が夜になり 人が お化けに なる」

被爆間もない頃、中国新聞に掲載されていた児童の句です。原爆資料館の東側記念館に原爆投下直後の様子を被爆者が書いた絵が展示されています。シリーズ毎に入れ替え展示されます。是非ご覧ください。

2017広島のうたごえ祭典での音戸ファミリーコーラスの仲間のみなさん(上)。呉たんぽぽ合唱団に出場の、左から國貞さん、私の姉、松本さん、高田慶子さん(下)

 

2017年12月6日、音戸ファミリーコーラスの仲間のみなさんで、松本秀子さんの米寿のお祝いの記念写真(右上指揮者は高田龍治先生)

 

8・6原水禁2018年世界大会閉会総会後、控室にて。左から松本秀子さんの娘さん、馬場、高田先生、松本秀子さん、うたごえの隅広智子さん、小玉陽子さん

8・6旧中島国民学校同窓生の昼食会。左から松本秀子さん、畦田栄一さん、馬場、松本さんの娘さん

 

 

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Posted by abiru